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「「世間」とは何か」阿部謹也 [それでもどっこい生きてます]

このブログのカテゴリーに「ヨノナカを叫ぶ」というものがあります。
私にとってヨノナカとは、自分の身近に感じる範囲、触覚に訴えてくる範囲です。
そのヨノナカに対して、「なんでそうなんだよ!」と思ったときに、「ヨノナカを叫ぶ」を選びます。

なんで、「ヨノナカ"に"叫ぶ」じゃないのか。

それは、自分もそのヨノナカに含まれているからで、決してその出来事をヨソのこととはいえないし、自分もそれに加担しているからです。意識的にせよ無意識にせよ。

やや話は飛びますが、
「民主主義は日本に根付いていない」
「西洋の一神教と違って日本は多神教だから、神との一対一の関係を基盤にした個人は成り立たない」
「日本人は農耕民族で寄り合って暮らすことが利益になることから、個人で生きてい文化はそだっていない」
「島国で征服されたこともないので、みんなが同質の考え方を持っている」
などの言い方があります。
日本文化の特徴として、「恥の文化」、「甘えの文化」とかいう風な言い方もされます。

なんとなく「そうだよね」と言ってしまいそうになります。中途半端に本を読んでる私みたいなヤツが言いそうなセリフでもあります。
でも、私には上に書いてあることは、全然実感がわかないのです。

それは、「日本でも個人は成り立っている!!」「近代的自我は確立されている!!」と力こぶを作って言いたい訳じゃなく、もっとダメダメな話でして、私は「個人?社会?それは美味しいの?」というレベルの感覚でいるからです。

ちょっと前に読んだ【人間失格】でも、「世間」の話を取り上げましたけど、「個人」や「社会」から考えるんじゃなくて、「世間」や「世の中」から考えるのじゃないと、私には良く分からないのです。

「日本人は明治維新以降西洋的な文明は取り入れたが、一番重要な自由、個人、平等などの価値観の取り入れはできなかった」といわれても、全然わからないのです。
だから、「自由主義の悪影響で日本はこんなになったんだ」とか、「いや自由の確立が不十分だからら国の圧制に抵抗できないのだ」とか、”やいのやいの”いわれても、さらに分からなくなってしまう。

まぁ、それをもって「個人が確立できていない!」って言われちゃえばそれまでなんですけどね。

このブログでは、「自分で考えること」や「ひとりでいられるようにすること」、「何事にも強制されないこと」などを書いていますが、それは、上の意味でいう「個人の確立」とは、何か微妙に違うような気がしています。何かは分かりません。

この本は、そういう「西洋的な個人や社会」というものと、「日本的な世間」というものを、文学作品を通して考える本です。
もし日本の「世間」を対象化して分析したいと思えば、「徒然草」の兼好法師のように、「隠者」つまり世捨て人になるしか方法はなかったのではないか、という指摘が印象的でした。

世の中の人が、浮浪者やアウトローの人たちに感じる、「うらやましさ」は、そういう「隠者」の属性を感じるからかも知れません。

「世間」とは何か

「世間」とは何か

  • 作者: 阿部 謹也
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1995/07
  • メディア: 新書


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