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「敗戦後論」加藤典洋 [それでもどっこい生きてます]

とても刺激的な本でした。
戦前戦後の文学者がどうやって敗戦を捕らえたのか、太宰治や大岡昇平など(たくさん出てきます)を例に出して考えています。
その時代を生きていない私達が敗戦を考える上での足がかりを、その当時の文学作品を通してかんがえる、という感じでしょうか。

いつぞや新聞で、
「戦争の悲惨さを忘れない、忘れてはいけない、という形での平和運動はもう無理なんじゃないか。そういう”死者を引っ張り出す”方法じゃなく、まさに今、自分が、平和が必要であると考えるなら、それはなぜなのか、もう一度そういう原点に立って考えていく必要があるんじゃないか」
という様な記事を読んで、大いに感動したことがあります。

多分、それは、
「何も考えずに歴史を背負うのではなく、自分で考えてもいいんだ」
という安心感で、つまりそれは、
「すべてを背負ってオレは死ぬ必要はないんだ」
ということです。

日本が戦争をして、人をたくさん殺して、それは悪いことだ、反省しなければいけない、といわれて、それはそうだと思いつつ、もし突き詰めて反省するのであれば日本人として死ぬしかないのじゃないだろうか、と考えたりしたわけです。

自分でも極端な考え方だとは思います。

もちろん簡単に死ぬことだけが謝罪ではないし、生きつづけてあやまり続ける、石を投げ続けられることに耐える、というのも一つの謝罪の方法ではあると思います。

でも、どっちにしろ「”日本人”は謝罪を続けなければいけない」というのは、「”あなた”は考えてはいけない」、つまり「個人で考えることの否定」と同じ意味だと思うのです。

それは困る。非常に困る。

たとえば、自分が人を殺して、その結果死刑になるなら分かります。
「”あなた”は人を殺したから死刑ねん♪」です。

これが「”日本”は戦争でひどいことをした。そしてオマエは”日本人”だ」となると、個人としての責任のとり方はないのです。あくまで”日本人としてどうするか”の問題ですから。
でも、一般的に「日本は反省しなければいけない」というときには、「他人の問題ではなく、あなたの問題として考える必要がある」みたいな言い方をされたりするわけです。

なんか困る。どっちなんだ。

ここで良く考えると、私は「自分である」ということと、「日本人である」ということを分けて考えていることがわかります。
謝罪するには日本人である必要があるが、日本人であるということは自分でなくなってしまう気がする。不思議です。
私は日本は閉塞感があるから嫌いな面はあるけど、日本文化は好きですし、別に外国に住みたいとは思いませんが、「日本人であること」については、微妙に変な感覚を持っているようです。

この本は、高橋哲哉に批判されている様ですが、批判をされていること自体も含めて、非常に読む価値のある本だと思います。(文庫版も出ている様です)
【7月29日:「八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学」佐藤卓己】も、とても良い本でしたが、どっちも左だの右だのではなくて、「一体あの時から何があって今こうなっているのか」について考える材料を与えてくれます。

敗戦後論

敗戦後論

  • 作者: 加藤 典洋
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1997/08
  • メディア: 単行本


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