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積乱雲といわゆる右翼 [それでもどっこい生きてます]

とにかくあつい。いったい何度あるんだ?

まぁ暑いけど積乱雲がとてもとてもキレイです。夏はやっぱり積乱雲ですね。

靖国やら北朝鮮やら拿捕やら加藤・元自民幹事長の事務所が右翼男に放火されたやら、色々と書きたいと思いつつ考えがまとまりません。

一つ気になってしょうがないのは、自分はいわゆる右翼と呼ばれる人と同じ思考をしているのかも知れないということ。
もしかすると、歴史的事実と呼ばれるものを掘り起こす行為自体が右翼的思考を促すのかも知れない、とか考えています。
東京裁判の有効性とか、戦争中に日本国民が大量の人を殺してきたこととか、多分、それらはやろうと思えば、すべて日本国の都合の良い解釈は可能なんだと思います。
事実、色々と本を読んで、自分もそう考えている面があります。
そして、いわゆる右翼と呼ばれる人たちは、「都合よい解釈」とかじゃなくて、それが唯一正当な解釈だと主張するでしょう。
逆に原爆投下の妥当性についても、アメリカ国の都合の良い解釈は可能で、さらにそれが唯一正当な解釈だと主張する人たちはいるでしょう。

現代でいえば、「靖国参拝について云々するのは内政干渉だ」とか、「北朝鮮のミサイル私設をピンポイント爆撃せよ」とか、「拿捕についてロシアに強く抗議」とかも同じで、国益さえキーワードにすれば、すべて正当化されうる状況です。

「国際法を遵守さえすれば、どこまでも国益を追求することは許されるのか」

自分で書いてみて、とても力の弱い問いに感じます。

なぜ、アメリカ国のアフガニスタンとイラクへの攻撃を止められなかったのか。
なぜ、日本国が戦争に向かっているのに止められそうもないのか。

それは、様々な政治的なレベルの話があるにせよ、国益を追求することが圧倒的に正しい、そして何より「気持ちが良い」と私が思っているからじゃないのか。
国の力をまとった日本国民として、ちっぽけな自分を超えていける気持ちよさ。
その誘惑に負けそうだからじゃないのか。

「いやオレだけはそうじゃない。違うんだ」と言うとしても、そんなんじゃ、いわゆる右翼の人には通じない。ただ後で、「あ、自分は前々から戦争は反対だっていってたんですけどね」という言い訳にしか使えない。

具体的に止める方法はないのか?

戦前にあった「原理日本」という右翼団体の蓑田胸喜は、はじめの内こそ大学知識人や政府の腰抜けぶりを糾弾していたものの、日本自体が急速に右傾化してく流れで、結局排除されてしまいます。
彼がその時に「自分は間違っていた」と言った意味はなんなのか。私には良く分かりません。

ただ、少なくとも、いたずらに社会を煽って加熱化させていくことは、とても危険なことだと、それだけはいえるのじゃないでしょうか。

なんだか、長々と取り留めない文章になってしまいました。

色々と誤解されそうな気もしますが、「いわゆる右翼は嫌だよねー」ということじゃすまない状態で、それであれば「いわるゆ右翼ってなんだろ?」ということに、もうちょっとみんな敏感であっても良いと思うのです。

本。

悪魔のささやき

悪魔のささやき

  • 作者: 加賀 乙彦
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2006/08/12
  • メディア: 新書


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「弱くある自由へ―自己決定・介護・生死の技術」立岩真也 [それでもどっこい生きてます]

「「負け組み」の哲学」と同様、負け負け系のイメージで買ったら、バリバリ骨太の本でした。
しかも、厳密骨太。

障害者の自立運動のことを軸にすえつつ、安楽死や介護のことについて、実際に対象となる障害者や老人はどんなことを考えたり、思ってたりするのか、誰のための介護や安楽死なのか、自己決定といわれるものは本当はどれだけ自己で決定できているのか等など、ものすごく粘り強く考えています。

多分、こうやって説明してしまうと、障害者をめぐって「平等」「やさしさ」「人権」というキーワードでよく連想するような偽善的な内容の本なのか?と思われると思いますが、はっきり違います。

誤解なく説明するのは、多分この本を読んでもらうしかないのですが、たとえば、障害者を持っている人が「決定能力がない」と一方的に決め付けられ介護を押し付けられることとか、「つらいので早く楽になりたい」と安楽死を希望した人は実は自分が「無能」であることに絶えられないから死を選んでいる場合があり、それは「能力がなければ生きている資格は無い」というメッセージが支配的な世の中だから安楽死を選ばされているだけなのではないか、とか、そういったことが書いてあります。

もうとにかく、
「障害者が住み良い社会について、私達もかんがえなくてはいけませんね」
とか、
「老人はやはり家族の下で安心して暖かい介護を受けることを望んでいます」
とか、
そういう、「どの歴史上の人物の言葉ですか?」といいたくなるような、自分の言葉ではない言葉、いっけん「正しく」「良い」こととされる言葉のウソくささとホントくささを、丁寧に分けて考えることを本の中で粘り強く続けています。

まぁ、正直文章がくどいです。
「あ、ここが話しの落としどころかな?」と思った瞬間に、それを肯定したまま、逆方向に話が進んでいきます。息継ぎなしで遠泳してるみたい。
読者に安直な結論を与えない(確かにそんなものは無い)点が、ちょっと橋本治の文章に似てるかも。
んで、もしかすると、橋本治よりくどいかも。

世の中をただ受け入れるのでもなく、絶望するのではなく、ひっくり返すのでもなく、何があり、何が無いのか、自分が何が必要だと感じていて、何が過剰でいらないと感じているのか、そういういったことを、ひとつひとつ冷静に仕分けして、何かにつなげて行こう、そういう静かな強い意志を感じます。

とても読みこなせたとは思いませんが、こういうバカ粘りする本はとても好きです。

弱くある自由へ―自己決定・介護・生死の技術

弱くある自由へ―自己決定・介護・生死の技術

  • 作者: 立岩 真也
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2000/10
  • メディア: 単行本


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「日本人は爆発しなければならない―日本列島文化論」岡本 太郎/泉 靖一 [それでもどっこい生きてます]

1970年に発売された対談本の復刻版。

縄文式土器を美術として再評価した岡本太郎。
弥生文化が文化的であるがゆえに感じる味気なさ、そこから続く日本文化の味気なさ。
岡本太郎は、縄文の力、人間の根っこの力みたいなものに共感していた様です。
それは、唯一日本古来の文化が残っているという沖縄の話にも繋がってきます。

以前読んだ橋本治の本で、「好き嫌いでいえば縄文文化がすきだけど、良さ、という面では弥生文化が良い」ということを書いていて、好きと良いに表現を分けることで、「私」と文化の距離感、文化の評価軸と「私」の評価軸という、意識しないとごっちゃになる点を分けていたのが印象的でした。

そういう点では、岡本太郎は「文化」を理解しつつも、あくまで「私」からしかすべては始まらないと、痛いほど明確に意識していたのが良く分かります。

・・・と書きつつも、読み終わったのは月曜日だったので、正直、内容はもうよく覚えてなかったりします。やっぱり、読んだあとすぐ書かないと、ダメですなぁ。

日本人は爆発しなければならない―日本列島文化論

日本人は爆発しなければならない―日本列島文化論

  • 作者: 岡本 太郎, 泉 靖一
  • 出版社/メーカー: ミュゼ
  • 発売日: 2000/07
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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